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「昭和を見つめる」其の五
2004/07/17

1920年?1930年代にかけて、世界には2つの政治観念が広がりをみせた。1つは共産主義、もう1つはファシズム(全体主義)である。
恐慌や経済不振等で国内世情が大きく混乱する中、政党、陸軍、右翼、左翼はそれぞれの立場で国家の革新を唱えた。
陸軍(関東軍)は、日本政府の方針に反して、昭和6年9月18日満鉄の線路を爆破し、それを機に軍事行動を開始した(満州事変)。当時、政党政治に不信感を持っていた国民はこれを支持し、陸軍に220万円の支援金を送った。
関東軍は、中国が西欧列強諸国の植民地化し、国家統一ができないの状態をみて、満蒙を5族(漢民族、蒙古、朝鮮、日本、満州人)協和の国とし、王道楽道の国家を建設しようとする理念を持っていた。しかし、逆の立場でいえば植民地の支配者が新たに登場したという結果になる。
1932(昭和7)年3月1日、関東軍は満州国の建国宣言し、清朝最後の皇帝(ラストエンペラー)溥儀を満州国元首の地位につけた。
満州国の承認に反対する政友会の犬飼毅首相は、海軍将校の一団によって暗殺をされる(5・15事件)。犬養首相は、押し入ってきた海軍将校に「話せばわかる」と語りかけたが、将校たちは「問答無用、撃て」と発砲した。という有名な話がある。今日のテロ対策に示唆を与えるものだと感じる。
これにより、8年間続いた政党政治(内閣)は幕を下ろし、軍人や役人が中心となった内閣が誕生することとなる。この状況を政党政治に不信感を募らせる大半の国民が指示をした。
一方、満州国の建国に対する各国の反応は、中国国民政府は反発を示し国際連盟にこの問題を提訴する。国際連盟はイギリスのリットンを団長とするリットン調査団(英、米、仏、独、伊)を満州に派遣した。その報告では、満州における排日運動のよって日本の安全がおびやかされていることは認めたものの、満州事変における日本軍の行動は自衛行為とは認めず、日本軍の撤兵と満州の国際管理を勧告することになる。
満州国の建国に対して国際連盟の総会では、これら対日勧告案は42対1、棄権1で可決され、日本はこれに反対し国際連盟を脱退する。
当時の日本の軍人や政治家は、世界の政治体制は、第1次世界大戦の戦勝国で主導されており、ベルサイユ条約やワシントン条約、ロンドン海軍軍縮条約は、世界の権益を米英を中心とした国に分割するものであると考えていたようである。
また、イギリスやフランスは、本国と植民地の関税をさげ物資を容易に流通させ、他国の商品には高い関税を掛け、それを排除するブロック経済圏をつくり、日本の商品はそこから排除されていった。
日本では、これに対抗する為に満州や中国の一部にブロック経済圏をつくろうという考えが強くなっていく。後の大東亜共栄圏の思想は、これらの状況の中で生まれたようである。
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