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平成19年 新年所感
2007/01/09

四十三を迎えて

孔子は「四十にして惑わず、五十にして命を知る」と言い、リンカーンは「男は齢四十になれば、己の人相に責任がある」と言いました。

私も、四十を越え今年1月2日を以って43歳となり、今まで増して新ためて「自分というもの」について考えるようになりました。

人は齢を重ねる内に「動」から「静」へと精神的に移行していく時期があると感じています。これは、動きが止まるということではなく「腹を据える」というようなことで、孔子の言葉を借りれば、「吾れ十五にして学に志し、三十にして立つ」これが人生の初年期であり、「四十にして惑わず、五十にして命を知る」これが中年期、「六十にして耳順し、七十にして心の欲するところに随って矩を踰えず」これが晩年の姿だということで、人相応に考えを巡らし、行動し、経験を深め、自省しながら自らを創り上げて行くプロセスのようなものです。

自分でいうのも何ですが、若いころは「勢いだけ」でもやれることが多かったと感じています。この「だけ」というは若さの特権であり、これがなければ人生尻窄みで終わってしまうものでもあり、大切な要素だと思っています。しかし、いつまでもこの「だけ」であるならば、やはり人の価値も幼稚なものとなってしまうような気がしています。

「自分」というもの

古今東西を問わず、偉大な哲学者達も突き詰めれば「自分とは何か」というテーマを基に学問を深めてきたといえるでしょう。

世にある色々なものは、独自に存在すると同時に、全体の部分としても存在しています。この円満無碍な一致を表現して「自」と「分」を合わせ「自分」というそうです。その自分を知り、自分を尽くすことの重要性は多くの先達が言い伝えてきたことでもあります。しかし、この何でもないような「自分を知り、自分を尽くす」ということ大変難しいことです。自分がどういう素質能力を天から与えられているのか、それを称して「命」といい、それを知るのが命を知る「知命」であり、知ってそれを尽くしていくことが「立命」というそうです。

西郷隆盛はこんな言葉を残しています。「天を敬い、人を愛し、天を知り、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを訪ねるべし。」

今更ながら、「自分創り」というものは人生の大きなテーマであると思っています。

物の見方、考え方

養老孟司氏の著書「バカの壁」には、「行動に影響しない入力(情報)は、その人にとって現実ではない」と書かれてありました。例えば、足元に虫が這っているとする。興味のない人は完全に無視してしまうか、目にも止まらない。しかし、足元に100円玉が落ちているとすれば、その人は立ち止まるかもしれない。

これは、入力は情報が脳に入ってくること、出力はその情報に対しての反応であるという現象を表したもので、入力をx、出力をyとすると、y=axという方程式が考えられ、何らかの入力情報xに、脳の中でaという係数をかけてでてきた結果の反応がyであるということです。このaという係数が「現実の重み」というものだというものです。

よく「人の持つ能力で大切な要素は?」という問いに「決断力」「行動力」等が挙げられますが、それら全てに影響を与えるのがこの「現実の重み」というもので、いわば、物の見方、考え方、すなわち「判断力」を磨くことが重要である考えています。

四経五書の1つである「大学」には、こんな教えがあります。「至善の地に止まることを知って、はじめて疑惑することなく定まることができます。身が安らかにしてのち、事を熟慮することができます。よく熟慮してのち、事の宜しきを得て、過ちなきことができます。物には本末があり、事には終始があります。物事の先後することを知れば、道に近いといえます。」

四維-国維

「管子」に国や社会を維持存続させていくためには、四つの大切な原則が説かれています。これを「四維」「国維」というそうで内容は次の通りです。

国の四維とは、「礼・義・廉・恥」のことで、この四つの徳がなければならないとしています。

「礼」とは、現代風に言えば、正しい秩序・美しい調和のことです。人間の体もそうですが、いろいろな諸器官がそれぞれ秩序を保ち調和してこそ健康が維持でき、暮らしも成り立つというものです。国や社会においてもそれを構成する機関・機構が正しい秩序と調和を保って、その機能が円滑に遂行されなければならないということです。

この「礼」を営み、意義・使命をそれぞれ果たしていくものが「義」であります。これを無視して、利己的に放縦に活動するのが「不義」といいます。

利というものは、利己・私事でありますが、礼や義は全体を見通す公の意味を持っていて、これを遂行するには、無私「廉」になるといいます。

そうして、そういう精神に立てば、利己的な公を乱すような精神・行動を恥じる、すなわち「恥」を知ることになるという教えです。

義理再生の身

「義理」という言葉は、もともと「正義の道理」という意味でありましたが、今では、漠然とした義務の観念を意味するようになっています。「義務」とは「正義の道理」が私たちにそれを要求し、かつ命令するものであるといわれています。

義理は、正しい道理から遠ざかって誤用されると、あらゆる詭弁と偽善の隠れみのになってしまい、正しい信念と、敢為堅忍の精神がなければ義理は一変して、卑怯者の巣と化してしまうようです。

「義」は、武士道の中でも最も厳しい教訓であります。武士にとって卑劣な行動や不正な行為ほど忌むべきものはないとされています。

義とは、勇気をもって為される決断力であり、道理にまかせて決断をし、いささかもためらうことをしない心をいうそうです。

また節義とは、例えていえば、人の体に骨があるようなもので、骨がなければ首も正しく胴体の上に坐っていることができません。それと同じように、人は才能があってもまた学問があっても、節義がなければ世に立つことはできないものです。節義があれば、無作法、不調法であっても、武士としてあるだけはこと欠かないものであるともされています。

勇気は、義のために行われるものでなければ、徳としての価値はほとんどなく、論語の中では「義を見てなさざるは勇なきなり」と説いていますが、積極的に言い直せば「勇気とは義をなすことである」ということになでしょう。

このようなことを新渡戸稲造は「武士道」の中で説いています。

「義」は道徳的実践であり、「理」はその哲学理論であります。人は哲学的・実践的に日々自らを鍛えることの必要性は多くの先人が説いていることであります。

これを「義理再生」というそうです。自分が、この「義理再生の身」であることを自覚し行動しなければならないと考えるところであります。

新年を迎え、今までの自分を省みて新たな決意をもって、踏ん張って参りたいと思います。本年も皆様のご指導、ご鞭撻をお願い申し上げます。
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